見えるようになっただけ

投稿者: | 4月 29, 2026

見えるようになっただけだ…

完璧な職場というものを、近藤はまだ見たことがない。 新しく移った事務所は、よく整っていた。広く、明るく、無駄がない。 白い壁際には大きなホワイトボードが据え付けられ、プロジェクトの進捗が色分けされている。 誰が見ても状況が分かる——そう設計されているはずだった。

「どうだい、近藤君。見事なものだろう? 徹底した5Sの賜物だよ」

総務の佐藤が、どこか誇らしげに言った。 近藤は頷き、ボードに視線を走らせる。 違和感はすぐに見つかった。

日付が古い。二週間前で止まっている。

「これ、更新は誰が?」

「各担当者だよ。まあ、忙しいからね」

佐藤は軽く笑って、そのまま去っていった。

見えているようで、見えていない。あるいは、見ないで済むようにできている。 その日の午後、近藤は倉庫に向かった。 入口付近は整っている。だが奥へ進むにつれて、空気が淀む。   「保留」「予備」「念のため」。  

もっともらしい言葉を貼られた段ボールが、壁のように積み上がっていた。 捨てられてはいない。

 

ただ、見えない場所に移されただけだ。

 

翌日、近藤はラベルを手に倉庫に立っていた。

 

「何をしてるんだ?」振り返ると、田中がいた。腕を組み、こちらを値踏みするように見ている。

 

「ラベルを貼ります。日付と、責任者と、期限を」

 

「余計なことを増やすな。現場はな、“余計なことで止まる”のが一番怖いんだ」低い声だった。

経験に裏打ちされた言葉だった。近藤は頷いた。 「分かります。だから、止まる原因をはっきりさせたいんです」

一つの箱を指差す。

「これ、いつ使います?」

「分からん。だが、使うかもしれない」

「その“かもしれない”は、いつまでですか」田中は答えなかった。

近藤は黙ってラベルを貼る。《保留:7日 担当:田中》

「勝手なことを」

「7日経っても必要なら、残しましょう。そうでなければ、その時に考えます」それ以上は言わなかった。

 

—三日後。

 

倉庫の一角に人が集まっていた。

「なんだこれ……」ラベルの多くが期限を過ぎ、赤く塗られている。

「こんなに要らないもん、抱えてたのか」誰かが呟いた。

田中は何も言わず、その光景を見ていた。

 

—ホワイトボードにも、ひとつだけルールを加えた。

更新されていない情報は、「未完了」とみなす。 朝礼でそれを伝えたとき、空気がわずかに張り詰めた。

「それじゃ、全部遅れてるように見えるだろ」

「現実がそうなら、そう見えた方がいいと思います」近藤は静かに言った。

 

—その日の午後、電話が鳴った。

「今日出荷のはずですが?」受話器を取った担当者の表情が固まる。 室内の空気が一瞬で変わった。担当者はホワイトボードを見る。

更新されていない。 つまり、未完了。

実際には、作業はほぼ終わっていた。 ただ、最終確認だけが抜けていた。

「……すぐ確認します」電話を切ると同時に、現場が動いた。 確認、修正、再確認。出荷は、ぎりぎり間に合った。

もしボードが“完了”を示していたら、その抜けは見逃されていたはずだった。

 

—一週間後。

倉庫は軽くなっていた。通路が見える。 ホワイトボードの前には、自然と人が集まるようになった。 更新は義務ではなかった。 だが、更新しなければ困る状態になっていた。

 

—夕方、部長がぽつりと言った。

「前より散らかって見えるな」机には資料が出ている。

ボードには未完了の印が残っている。誰も否定しなかった。

「でも、仕事は早くなっています」誰かが言った。

部長はしばらく考え、近藤を見た。

「何をしたんだ?」近藤は肩をすくめた。

「見えるようになっただけです」一拍おいて、続ける。

「問題が」

 

–問題は、なくならない。 ただ、見えなくしていただけだ。 そして、見えない問題は、必ずどこかで膨らむ。

 

近藤はそれを知っていた。

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