完璧な請求書なんて存在しない。
完璧な絶望が存在しないように。
僕がその会社に入って最初に学んだのは、そういうことだった。
一 古代の海図
十一月のよく晴れた火曜日の午後、田中さんの声がオフィスに響いた。
「だから言ったじゃない。ここの桁数、どうして目で確認しないの?」
フロアにいる二十数名は一斉に沈黙した。嵐が通り過ぎるのを待つように、誰もが画面に視線を落とす。
数百万単位の誤請求になりかけた、未遂のエラー。
やれやれ、と空気が言っていた。
だが僕は、少し違うことを考えていた。
なぜ彼女だけが、システムすら見逃したその違和感に気づけるのか。
その夜、誰もいなくなったフロアで、僕は田中さんのデスクのバインダーを開いた。
色褪せた付箋。
びっしりと書き込まれた手書きのチェックリスト。
それは単なる手順書ではなかった。
「この取引先、月末に仕様を変えることがある」
「この担当者、押印がずれているときは要注意」
「この形式の請求書、過去に二度トラブル」
そこにはルールではなく、記憶が蓄積されていた。 まるで、失われた大陸を目指すための古代の海図のように。
二 翻訳
僕はその海図をコピーし、田中さんに声をかけた。
「これ、仕組みに落とせないですか」 彼女は即座に言った。
「あんたたちみたいな若い人間に、この意味がわかるわけないわ」
それでも僕は引かなかった。
毎日少しずつ話しかけた。
なぜそのチェックが必要なのか。
何を見て判断しているのか。
やがて彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「A社はね、締め日前に必ず何か変えるの」
「この担当、電話では強気だけど、書類だと嘘が出る」
「このフォーマット、昔一人辞めてるのよ」 それは仕様ではなかった。
人間の癖と、過去の傷跡だった。
数週間後、僕はそれらをエクセルのマクロに落とし込んだ。
「全社標準リスク管理シート」 上層部は評価した。
「属人化の排除」
「再現性の確保」
「効率化」
どれも正しい言葉だった。
三 歪み
システム導入から一週間で、違和感が出始めた。
入力項目が多すぎる。
理由がわからないチェックが多い。
現場はすぐに適応した。 —— 適応の仕方を、間違った方向に。
空欄は許されない。
だから埋める。
意味がわからない。
だから「9999」と入れる。
チェックは通る。
だから問題ない。
ある日、実際に誤請求が発生した。
金額は小さかったが、性質が悪かった。
過去には一度も起きなかったタイプのミスだった。
原因は明確だった。
「確認したことになっている」 しかし「誰も見ていない」 田中さんのやり方なら、このミスは起きなかった。
四 防波堤
シートの撤回を提案しようとした日の午後、先に動いたのは田中さんだった。
彼女は、ミスを起こした中堅社員の前に立った。
しばらく何も言わなかった。
「……最初に言っておくけど」 一度、言葉を切った。
「このシステム、私は嫌いだった」 フロアの空気が揺れた。
「余計なことが増えるし、わかりにくいし。正直、邪魔だと思ってた」
彼女は僕の方を一瞬だけ見た。
責めるようでも、庇うようでもない、曖昧な視線だった。
「でもね」 少しだけ声のトーンが変わった。
「これを適当に扱っていい理由にはならないのよ」 彼女はゆっくりと、話し始めた。
過去のクレーム。
理不尽な謝罪。
辞めていった人間。
自分が一人で背負ってきた失敗。
「私はね、間違えないためにやってるんじゃないの」 その声は低く、深かった。
「同じことで、誰かが苦しむのを止めるためにやってるの」 沈黙が落ちた。
「佐藤くんのやったことは、間違ってない」 彼女ははっきり言った。
「ただ、全部は入らないのよ。人間のやってることって」 そして、少しだけ笑った。
「だから、考えなさい。何を見てるのか」 誰かが、ゆっくりとキーボードに手を置いた。
五 金曜日の午後
数ヶ月後。
システムは小さくなった。
チェック項目は減り、代わりに「理由」を書く欄が増えた。
ある金曜日の午後、田中さんが僕のデスクに来た。
「次はあの部署のやつ、やらない?」
「いいですね」と僕は言った。
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