第2話:【承認待ちのメデューサ】の呪縛と、思考の聖剣
― 若手社員 佐藤が挑んだ、見えない敵(ムダ)との戦い ― その②
「佐藤、あの件どうなった?」
火曜日の朝一番、フロアに響く課長の怒鳴り声。
俺は、ディスプレイに吸い込まれそうだった視線を、重い鉄の扉を開けるような心地で課長へと向けた。
「ええと……、次長のご承認待ちです」 俺の声は、自分でも驚くほど力が抜けていた。
「次長は?」
「今朝から緊急会議、午後はそのまま直帰だそうです」
「……チッ」課長は苛立ちを隠そうともせず、舌打ちを残して席に戻った。 デスクの上には、昨日完成した渾身の企画書。
クライアントへの提案期限は明日。 だが、この紙切れはまだ、社内という狭い檻から一歩も外に出ることを許されていない。
俺たちが働く株式会社ネクスト・ギアにおいて、「承認」とは一種の聖域のようなものだった。
係長、課長、次長、部長。ピラミッドの頂点に向かって判子を集めていくスタンプラリー。
だが、その頂はあまりに高く、常に深い霧に包まれている。
誰か一人が席を外せば、すべてが止まる。会議、外出、あるいは単なる「なんとなくの気分」。
そんな些細な理由で、俺たちの情熱は死ぬ。 その時、俺には見えた。 フロアの中央、天井まで届くほど巨大な、蛇の髪を持つ女のモンスターが。
【承認待ちのメデューサ】 組織の「階層(ヒエラルキー)」そのものが蛇の髪となり、うねっている。
彼女と目を合わせた——いや、「お伺いを立てた」者は最後。
その瞬間に思考を奪われ、ただ時が過ぎるのを待つだけの石像と化すのだ。
「佐藤さん、まだですか?」 チャットの通知音が、石化した俺の身体に突き刺さる。
後工程のチームからの催促だ。彼らは俺を待っている。
俺は次長を待っている。 誰も動かず、誰も価値を生まず、ただ時間だけが残酷に溶けていく。
「勝手に進める勇気なんて、あるわけないだろ」
自嘲気味に呟いた。組織のルールを破れば、それは「戦犯」を意味する。
メデューサの眼光に背くことは、この会社での社会的な死を意味するのだ。 その時、ポンと肩を叩く手があった。
「佐藤、お前もメデューサにやられたか」 田中先輩だ。
前回の【疲労のグレムリン】討伐以来、気にかけてくれるようになった唯一の理解者。
「あいつはな、『責任』という重荷を一人で背負うのが怖いだけなんだよ」
「責任……?」
「そう。判子を押すってことは、失敗した時に矢面に立つということだ。だからみんな慎重になる。慎重になりすぎて、石になるんだ」
「俺も昔、別のメデューサに石にされかけたんでな…」 田中先輩はそれだけ言って去っていった。
「責任が、怖い……?」 俺は、空席の次長デスクを見つめた。 メデューサは悪意で俺たちを石にしているんじゃない。 彼女自身もまた、「責任」という巨大なモンスターに喉元を掴まれ、動けなくなっている被害者なのか。
「だったら……」 俺の中で、何かが閃いた。 責任が怖いなら、その重荷を極限まで軽くしてやればいい。
判断のボールを丸投げするから、相手は身構えるんだ。
振り返れば、この企画書の内容は先週から断続的にメールで進捗を共有してきたし、昨日の立ち話でも骨子は伝えてある。
「中身はすでに知っているはず」という事実。 これを楔(くさび)として打ち込むんだ。 これは単なる催促じゃない。
相手に『返信しない』という最も楽な選択肢を与え、その選択が『承認』とイコールになるように仕組んだ、思考の罠だ。
俺は震える指で、次長へのチャット画面を開いた。
『お忙しいところ恐縮です。本件、これまで段階的に進捗共有させていただいた通り、最終稿を再送いたします。 明日の14時までにご返信がなければ、内容にご承諾いただいたと判断し、このまま進行させていただきます。 何か懸念があれば、スタンプ一つでも良いのでお報せください』
「よし……」 送信ボタンを押す。
「生意気だ」と一蹴されるか、「勝手なことをするな」と激怒されるか。
だが、石のまま朽ち果てるよりはマシだ。
14時。
運命の時刻が過ぎた。次長からの返信はない。
俺は一呼吸置くと、椅子を蹴るようにして立ち上がった。石化していた身体が、嘘のように軽い。
「課長、次長から14時までにご連絡がなかったので、既定通り進行します。今からクライアントへ送付します」
俺の声には、逃げ場のない意志がこもっていた。
課長は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、俺の気迫に押され「……ああ、わかった」と頷いた。
その直後だ。デスクの内線電話が、けたたましく鳴った。 ディスプレイには「次長」の二文字。
心臓が跳ね上がる。
「……はい、佐藤です」受話器の向こうは、死のような静寂。数秒の後、地を這うような低音。
「……佐藤。誰が勝手に進めていいと言った?」 血の気が引いた。やはり、触れてはいけない逆鱗に触れたのか。
「申し訳ありません。ですが、期限を優先いたしました」
「…………」
再びの沈黙。だが、受話器越しに漏れたのは、意外にも小さな失笑だった。
「お前のあのチャット、俺の『検討リスト』の最優先に躍り出てきやがったよ。返信しなきゃ勝手に進むんだからな。……いいだろう、今回はお前の勝ちだ。筋は通っている」
「……! ありがとうございます!」
「だが、次も同じ手が通用すると思うなよ」 ツーツーという音。
背筋を冷や汗が駆け抜けたが、それは確かな勝利の味だった。
スマホが震える。次長からのチャット。そこには短く、「OK(親指のスタンプ)」。
その瞬間、フロアを支配していたメデューサの呪縛が、霧散していくのが見えた。
止まっていた時間が、一気に加速する。
俺の企画書は、迷宮を抜け出し、世界へと解き放たれた。
「……ふう」 冷めたコーヒーを一口すする。 メデューサを倒したわけじゃない。
上司の性格を変えたわけでもない。
ただ、彼らの「責任」という荷物を少しだけ肩代わりし、俺たちの「時間」を取り戻しただけだ。
だが、その快感は格別だった。 組織に飼われる「家畜」から、自ら未来を切り拓く「人間」に戻ったような感覚。
「さあ、次は……」
俺はフロアの奥、神棚のように鎮座する巨大な書類の山を見つめた。
その分厚い体で組織の血流を止め、腐敗を隠し持っている。
【停滞のゴーレム】(在庫のムダ) 「お前を、半径5メートルから切り崩してやる」
俺は、不敵に吊り上がった口元を隠すように、
またコーヒーを一口すすった。
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